たなかようこ

一般市民のにっき

21.2.11 正岡&宮沢

 

最近、正岡子規の『病床六尺』をお風呂の中で読んでいる。

子規の晩年は、病気で身動きできないので数年を布団の上で過ごさざるをえないものだった。この本はそのときに書かれた随筆だ。

子規は病床という一つ所にとどまることしかできず、出かけたりもできない分、自分が見たものや、書物や訪問者の伝聞によって自分の頭の中に見える情景が生きる糧であったように、この本を読んでいて思う。

画集や活動写真的技術によるおもちゃ(覗くとスライドショーが見えるお土産キーホルダーみたいなやつ)で、行くことはできない実地の情景やその構造に思いを馳せる。

それに、その場所を想像で歩き回れるように、写真に加えてその場所の地図があればいいと子規は書いている。

俳句もそのような効能を持ち、作者の技量の悪さで書かれている情景が不明瞭だったり現実的に無理があったりすると、句評において子規がまず指摘する部分はそこである。

 

それは、わたしが昔通っていた美大系予備校のデッサンの講義のように、書いたものが見たままであるのか、いい加減な手癖で見たままを歪めたり誤魔化したりしていないか、という判断基準を思い出させる。俳句とデッサンの意外な共通点を見つけることになった。

あと、小さい頃に布団の中でやっていた、脳内劇場を思い出す。それは頭の中で自作のドラマを1クール毎晩想像するという日課だった。まずその話を想像するには、人物描写と舞台設定を考えないとあとでつまずく。現実に近い想像をするには、細かな想像のための材料が必要なのだ。

 

風呂場で読み進めるうちに、残りの項がどれくらいかが気にかかり、あとわずかになると悲しい。というのも、この本が子規の死ぬ直前まで書かれたものであって、残りの項数がそのまま生きられる長さだからだ。

わたしの知っているかぎり、たいがいの人は最期の日の少し前は元気だったり朗らかだったりしている。

子規も例にもれず、死ぬ1ヶ月前は隣の家の子どもたちとお絵かきをしたり、欲しかった絵を手に入れて喜んだり、なんだか明るい日を生きたので救いを感じる。

 

なぜか正岡子規を頭の中に思い描くと、どうしても宮沢賢治の写真が出てくる。どっちの写真も教科書に載っているが、子規のはやけに頭蓋骨の形が目立つ横向きの写真だったはずだ。